天才に生まれて、大企業に勤めて、長生きした人の話

人生論

僕の人生観に影響を与えた人の話です。

それは、祖父のお兄さん。

家族と呼ぶには遠い関係でしたが、僕に大きな影響を与えたことは間違いないです。

僕はその人の最後を見て、自分の人生の最期をどんな風に迎えたいのか、考えさせられました。

長い話になりますが、この記事を読んで、人生の最期を少しでも考えてもらえたら嬉しいです。

三鷹のおじさん

僕の人生に影響を与えた祖父のお兄さんは、東京の三鷹に住んでいたので、「三鷹のおじさん」と呼んでいました。

僕の祖父は、10人兄弟で、三鷹のおじさんは長男で、祖父は7男でした。

兄弟は、全員男。

凄いですよね。

子供がたくさんいた時代だとしても凄かったんじゃないかと思います。

そして、祖父は長男の三鷹のおじさんを凄く慕っていました。

長男と7男の祖父は、20歳差でした。

天才

祖父のお兄さんは、紛れもなく天才でした。

祖父の実家は、田舎で製麺所をやっていました。

自宅の一区画で細々とラーメンの麺を作って、売っていたようです。

そんな自営業の家庭で、三鷹のおじさんは今の東京大学の帝国大学に受かりました。

どんな学生時代だったのか分かりませんが、ネットがない昭和の時代の田舎から帝国大学に行くのは、間違いなく天才だったと思います。

三鷹のおじさんは戦争も経験していて、満州にも行っていました。

その時に、銃弾を受けて、身体に弾も残っていました。

戦争を生き残り日本に帰ってきて、その後は、東京電力に勤めて、かなり良い役職に就いていたそうです。

そんな三鷹のおじさんを祖父は慕っていました。

家族のいない三鷹のおじさん

三鷹のおじさんは、結婚して子供もいました。

そして、90歳以上の長生きをしていました。

しかし、奥さんを先に亡くし、子供にも先立たれて、三鷹で一人で暮らしていました。

三鷹のおじさんは、年金はかなりの金額をもらっていたようなので、お金には困っていません。

が、かなりの高齢で一人で暮らしていました。

祖父は10人兄弟でしたが、他の兄弟は戦争や病気ですでに亡くなっていました。

そんな三鷹のおじさんを心配して、祖父は「兄貴の最期は俺が面倒をみる」と言っていました。

10人兄弟で一番長生きした三鷹のおじさん

僕が中学生の時、悲しいことがありました。

それは、祖父が亡くなっていまいました。

祖父は、三鷹のおじさんより20歳若かったですが、先に亡くなってしまいました。

三鷹のおじさんは、10人兄弟の長男でしたが、一番長生きしました。

奥さんと子供にも先立たれています。

三鷹で一人暮らし。

そんな状況になってしまいました。

救急車で運ばれても誰も迎えに来ない三鷹のおじさん

祖父が亡くなってから数年後、事件がありました。

それは、東京の病院から三鷹のおじさんが救急搬送されたと連絡がありました。

僕の父が病院に向かいました。

医師から状況を聞くと、三鷹のおじさんは道端で倒れているのを発見されたようです。

そして、連絡できる家族がいないので、携帯の連絡帳に入っていた僕の家に連絡があったようです。

70年ぶりに実家に帰ってきた三鷹のおじさん

三鷹のおじさんは、しばらく入院して、数日後に退院できることになりました。

しかし、もう一人で暮らすことはできなくなってしまいました。

90歳を超えていたので、限界でした。

そこで、僕のとなりの家の祖母の家で引き取ることになりました。

祖母の家は、三鷹のおじさんの実家になります。

何十年ぶりでしょうか。

帝国大学の時から東京に行っていたと考えると、おそらく70年ぶりに実家に帰ってくることになりました。

弱っていく三鷹のおじさん

実家に帰ってきた三鷹のおじさんは、足腰が弱っていて、歩くのが辛そうでした。

しかし、天才なだけあって頭はしっかりしていて、話すのは全く衰えていませんでした。

当時、高校生だった僕は、こんな高齢でしっかりした人を見たことがなかったので、とても驚きました。

ゆっくり話しますが、高校生の僕が関心するような内容を話していたのを覚えています。

頭はしっかりしているものの、家から出られないので、身体はどんどん弱っていきました。

そして、家で暮らしていくのも厳しくなってきました。

祖母や両親が介護をしていましたが、大変そうでした。

そこで、実家から近いところにある老人ホームに入ることになりました。

老人ホームで馴染めない三鷹のおじさん

老人ホームに入ることになりましたが、週に1回くらい僕の父か母が着替えを持って行ったり、様子を見に行っていました。

僕も行ったことがあります。

僕は、老人ホームにいる三鷹のおじさんを見て、人生観が変わりました。

老人ホームには、当たり前ですが、他にも入居者の方がいます。

僕が老人ホームに行った時間帯は、お昼の時間帯で、多くの人がお昼ご飯を食べていました。

入居者の方の様子を見ていると、箸が持てずに職員の介護を受けながら食事をしている人、食べる度に食べ物を落としている人、いわゆるボケてしまっているような人、いろんな状態の方がいました。

老人ホームだから当たり前です。

そんな老人ホームで三鷹のおじさんはというと、多くの人がいるテーブルにはいませんでした。

端っこのソファで背筋をピンと立てて座っていました。

とても90歳とは思えないほど、しっかりした姿です。

老人ホームではかなりの異質な姿。

僕は、カッコいいその姿がとても寂しく見えました。

なぜなら、ソファ付近にはおじさん以外誰もいなかったからです。

おじさんの様子を職員の方に話を聞いてみると、ささっと食事を済ませるといつもソファに座っているそうです。

そして、他の入居者の方と話すことはないようでした。

確かに、そうなのかもしれないなとその時に思いました。

三鷹のおじさんは頭が良過ぎました。

90歳を超えて身体は弱っていますが、頭はしっかりしていました。

老人ホームに入って、三鷹のおじさんの話し相手になりそう人は見当たりませんでした。

生まれ故郷に帰ってきても友達ができない三鷹のおじさんが、僕には悲しく思えました。

三鷹のおじさんの最期

老人ホームに入って数年後、三鷹のおじさんは亡くなりました。

葬式も開きました。

三鷹のおじさんは生まれ故郷で亡くなり、お墓も作ることになりました。

そんな三鷹のおじさんの最期になりました。

しかし、まだ事件がありました。

実は、三鷹のおじさんには孫がいました。

事情は分かりませんが、その孫は三鷹のおじさんに会いたくないようで、僕の両親と手紙でやり取りはしていたようですが、一度も様子を見に来ることはなく、葬式にも来ることはありませんでした。

ですが、三鷹のおじさんが亡くなった後、その孫が僕の家に弁護士を来させて、遺産相続の話をすることになりました。

「一度も来なかったのに、遺産はもらってくの?」

と呆れてしまいました。

そんな、三鷹のおじさんの最期でした。

まとめ:あなたはどんな最期を迎えたいですか?

僕が三鷹のおじさんの最期を見て感じたこと。

それは、「天才に生まて、大企業に勤めて、長生きしたからといって幸せにはなれない」ということです。

三鷹のおじさんは間違いなく天才でした。

大企業に勤めて、高級取りで、老後もお金に困ることはありませんでした。

でも、友達がいませんでした。

老人ホームでは全く馴染めませんでした。

他にも、三鷹のおじさんを実家で引き取った後、三鷹のおじさんの友達と名乗る人から何人も連絡があり、おじさんの家に入られたり、私物を持っていかれたりいろいろありました。

良好な交友関係を築くことはできていませんでした。

そして、長生きしました。

兄弟の誰より長生きして、奥さんよりも子供よりも長生きしました。

その結果、一人になってしまった。

孫との関係は、おじさんに原因があることかもしれませんが、家族にも頼る人はいなくなってしまいました。

「長生きすることが幸せなことではない」と、僕に思わせるには大きな出来事になりました。

僕は、人生の最期を考える時に必ず、三鷹のおじさんを思い出します。

凄く好きな人でした。

でも、三鷹のおじさんの最後は悲しかったし寂しかったです。

僕は、人生の最期をどう迎えたいのか、まだ答えが見つかっていません。

いつか満足する答えを見つけて、その最後に向けて生きていければと思っています。

三鷹のおじさんの話、長くなってしまいました。

この話が、みなさんの人生の最期を考えるきっかけになれば嬉しいです。

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